こんにちは。
元池田町地域おこし協力隊、現在は池田町議会議員のkuro隊員です。
むかしばなし
甲子園、はやくも準決勝かぁ…。
— kuro隊員 (@kuro_ikdcok) 2019年8月20日
北海道勢がどちらも初戦敗退したせいか、あまり熱心に観なかったな。
母校が出場していたら現地観戦するつもりだったけど、その夢が叶う日が待ち遠しい。
素人ポエムな自分語り3本目。
元高校球児の性とでも言うのか、甲子園の期間中はどうしても思い出に浸りがちな僕です。
バンドを結成し第二の青春を謳歌する僕らだったけど、それも長くは続かなかった。
僕と親友Mの話!
前編はコチラ↓
中編はコチラ↓
さらば第二の青春
毎週末、僕のアパートにはMがいた。
スタジオに行って作った曲を練習して、その後はいつもの飲み屋へと繰り出すのが僕らの週末ルーティンだった。
実のところ、バンドとして、あるいはプレイヤーとして目覚ましい上達がある訳でもなかった。
しかしそれ故に、"まだまだ上を目指せる余地が無限にある"ということが僕にとってのやりがいだった。
ヘタクソだった野球に対して抱いていた熱意に非常によく似ていた。
僕はなんとなく曲作りのコツを掴んでいた。
それっぽいキャッチーな曲レベルならばどんどん作れるようになった。
何事も下手な鉄砲数打ちゃ当たるを地でいく僕は、他のメンバーより多くの曲を作った。
Mの作る曲は数こそ多くないが、随所にMらしさを感じさせると言うか。
基本的にキャッチーではあるんだけど、どこかに変化を織り込んでくる、と言うか。
僕がバンドを抜けた後にMが作った曲が、僕の聴いたオリジナルの中で一番好きだったりもする。
しかし。
野球やバンドに限らず、なにかに熱心に取り組むという行為は"楽しい"や"楽"だけでは済まないのが当然であって。
必ずしも楽しいことだけではなかった。
メンバーが一時離脱したり大喧嘩したり、振り返れば山あり谷ありの日々だった。
それらの+と-をすべてをひっくるめても、僕にとって第二の青春として謳歌している...つもりだったのだけど。
終わりはあっけなかった。
高校野球が終わった時とは比べ物にならないくらいにドライで現実的な理由で終わりを迎えた。
公務員を辞めて小さな会社で働いていた僕は、自分でも不思議なくらい仕事が楽しくなっていた。
数か月間の地方出張にも喜び勇んで行ったし、繁忙期の徹夜労働も苦にならなかった。
家に帰ればギターを弾いて、週末になればMやメンバーとスタジオに行く。
公私どちらもハイな状態だった。
そんなある日、僕は社長から関東進出の計画を聞いた。
僕の働いていた会社の本社は札幌で、営業範囲は北海道全域。
その範囲だけでもそこそこの売上が立っていたようだが、今後のことを考えるとやはり人口の多い関東圏への進出は必要だと僕も思っていた。
二つ返事で関東行きを決めた。
関東支店が軌道に乗れば札幌に戻る、という条件付きで。
この時点ではバンドを抜けることは考えていなかった。
異動や転勤、というよりは期限付きの出張、と捉えていたからだ。
むしろ知らない土地で生活するとなると、仕事以外にやることなんてギターしかない。
当時の僕は観光なんて一切興味が無くて、例え関東圏に住んだとしても自宅で好きなことをしていたいと心から思っていた。
スタジオで音を鳴らす頻度は減るだろうけど、集中して曲を作ったり純粋に練習を重ねられるのではないか、と考えていた。
Mやメンバーには事後報告をした。
僕の報連相の適当さはこの時から変わっていない。
"俺こうすることにしたから!"って決定事項しか話さないのだから、周りにいる人間はさぞメンドくさい目にあっていることだろう。
Mは"期限付きで帰ってくるなら別にいいけど、俺らはお前を黙って待っているつもりはない"と言った。
僕はあくまで一時離脱であって、それぞれがそれぞれで腕を磨けばいいと思っていた。
"俺が帰るまで待っていてくれ!"なんて頼むつもりも毛頭ない。
むしろ大人しく待っているなんて言われたら困るくらいだ。
そうして僕は札幌を離れた訳だけど。
結論から言うと、それが第二の青春に幕を下ろす原因となった。
"元バンドメンバー"という関係性へ
張り切って関東に赴任した僕は、日々の仕事に忙殺された。
物理的・体力的にはキツかったが、数字を挙げることが札幌に帰る道に繋がっているとわかっていたので、無心で働いた。
人や車の多さ、夏の暑さ、東京の道路の狭さなんかに辟易しながらも、あくせく働いた。
ギターに触る時間が短くなった。
今までは家に仕事を持ち帰ることはほとんど無かったのだけど、関東で住んだ家は事務仕事をして寝るだけの場所になっていた。
ギターに触る頻度も減っていた。
今までは毎日弾かなければ落ち着かないほどだったのに、1日、2日...長い時は1週間くらい弾かないこともあった。
練習も曲作りも、全く捗らなかった。
いつしかそんな状況に対して"やばい弾かなきゃ"と焦ることすら減ってきた。
きっとその時、もう既に僕のバンド熱は冷めてしまっていたのだと思う。
僕は自分の中で、もうMたちと一緒にやっていくことは難しいと思い始めていた。
正確に言えば、練習をサボっている僕の実力じゃ追い付けないかも知れない、と思い始めていた。
早い話、僕のバンドに対する熱意は仕事に負けたのだ。
ただそれだけの話だった。
大人らしいドライで常識的な理由だったけど、僕らしくはないと今なら思う。
その数か月後。
諸々の問題が発生し、僕は会社を辞めて札幌に戻った。
相変わらず報連相が適当な僕は、Mにも戻ってきたことを伝えなかった。
ギターを弾いていないブランクが負い目になって、今さら"また一緒にやろうぜ!"とは言いだせなかった。
そして仕事も探さなければいけないという現実的な問題が、その負い目をさらに大きなものにしていたのかも知れない。
ここが僕の人生において、けっこうなターニングポイントだったと今では思う。
もしも僕がなりふり構わず"またバンドやる!"とかなんとか言いだしていたら、きっと今の僕はなかった。
とりあえずその場しのぎの仕事に就いて、綱渡りのようにバンドを続けていられたかも知れない。
仮にその道を選んでいたら、札幌を離れるという選択肢は思い浮かばなかったかも知れない。
その道の行く先がどうなったのか、パラレルワールドとして覗いてみたい気もする。
この頃の僕とMとの関係性を表す言葉は、"元バンドメンバー"あたりが適切だと思う。
Special Thanks
その後の僕は、運よくそこそこの企業に拾われた。
多分これがまっとうな人生を送る最後のチャンスだったと思う。
転職しても仕事はそれなりにハードだった。
例えバンドを続けていたとしても、平日にギターの練習なんてする気が起きないし、たまの休日は飲みに行くよりも家で休んでいたかった。
Mとは数か月に1回...くらいは会っていたような気がする。
僕がバンドを抜ける直前に加わったメンバーと、どうやらうまくいっていたらしい。
ある日久しぶりにMと飲みに行った時、自主制作だったかインディーズだったかは覚えていないが、"ついにCDができた"と持ってきてくれたことがあった。
...というか買わされたような気がする。
僕が関東に行く直前にMが作った原曲。
僕も自分のパートのアレンジにちょっとだけ着手していたその曲が収録されていた。
"その曲の完成版"を聴くのはハッキリ言って複雑な気分だった。
自分が少しでも関わった曲が、自分じゃない誰かによって演奏されているのは...やはり歯がゆいものがある。
"意外とギターいいじゃん"と思ってもいない感想を言ったんじゃなかっただろうか。
僕は改めて悟った。
その曲が僕とは違うアレンジによって完成し、CDという形になっている以上は。
"ここに自分の居場所はないから、もう本当に諦めなきゃなぁ"と、とっくに諦めたはずだったのにそんなことを思っていた。
"自分の意志で諦めたクセに何言ってんだ"と、当時の僕をブン殴ってやりたくなる。
CDはまるで市販されている商品のようにクリアケースに入っていて、ジャケットや歌詞カードなんかもしっかり作られていた。
現メンバーの知人だったか身内だったかに、デザインができる人がいたらしい。
僕は"大したもんだね"と興味があるふりをしながら、もちろん本音では不貞腐れていたに決まっている。
悔しさや寂しさを悟られないようなんとなくCDを眺めていた。
僕がもう少しふんばっていれば、このCDの完成を当事者の一人として喜べたと思うと悔しかった。
僕もMたちと一緒に祝杯をあげたかった。
いくらグチグチ言ったところで、既に僕は部外者になってしまったけれど。
やっぱりそれでも。
Mはもちろん他のメンバーも、僕にとっては数少ない親友だった。
野球で出会った僕らが、野球以外でも同じベクトルを向いて惜しみない熱意を放出させていた。
一度は野球で夢破れた仲間が、全く別の夢を見つけて挑戦できるなんて、その関係を親友と呼ばずになんと呼ぶのか。
これは想像だけど、Mたちもそう思っていてくれたのかも知れない。
ふと得意気にMが放った言葉で、僕はそう思った。
M"スペシャルサンクスのとこ見てみ"
僕"(゚д゚)!"
Mが指した先。
そこには僕の名前が小さくクレジットされていた。
いったい誰の意志で僕の名前を載せてくれたのか。
それは聞いていないのでわからないが、僕はMがそうしてくれたのではないかと思う。
Mはそういうヤツなのだ。
前編で書いたヘルニア疑惑の件もそうだが、たまに...本当にたまにだが、Mはサラッと粋なことを言うヤツなのだ。
普段どんなにいい加減でも、どこか信頼できるのがMというヤツだった。
僕はそのクレジットを見て、なぜか自分の気持ちにケリがついた。
僕の名前が刻まれた彼らのCDがこの世に存在するなら、それが第二の青春のエンディングでいいかと思えた。
それを境に、僕とMが会うこともほとんどなくなった。
もう5年以上も前の出来事だ。
再会
その後。
僕は結局(まっとうな人生を送る最後のチャンスだった)会社を辞めて、札幌を離れた。
"もう人生エンジョイ路線で生きていこうっと!"と腹を括って己を貫く覚悟ができたのだ(偉そうに書いているけどちっとも偉くない)。
2年近く北海道内をリゾートバイトで巡り、池田町に腰を落ち着けて3年と少し。
その間にギター以外の趣味はたくさん増えた。
スノーボード、一人旅行、マラソン、ボルダリング、そしてこのblogもそう。
"ギターが趣味です!"と言う機会は減った。
それでも常にギターは部屋に飾り続けていて、月に1度くらいは弾いてみたりもしている。
たまに...特に酔っ払った時なんかに起こりがちなんだけど。
わずかに残っている当時の音源を聴き返すと、僕もMもヘタクソすぎて笑いが止まらなくなる。
MがCDを持ってきた時とは違い、もう悔しさも後悔もなくて、僕の脳内では"あぁ、あの頃は本当に楽しかったなw"という思い出の一つとして処理されたのだろう。
いつまでも笑える思い出ができただけでも、僕はMと親友でよかったと心底思う。
...と、そんな風に。
すっかり過去の思い出としてしまい込んで、わざわざ引っ張り出すつもりもなかったのだけど。
僕の気まぐれで、ちょっと前にMと再会した。
"今度札幌に用事あるから会おうよ"と誘ったら、Mは快諾してくれた。
なぜ僕がそんな気まぐれを起こしたかと言うと。
Mが突然、"今池田町にいるんだけど"と電話してきたのだ。
....よりによって僕が札幌方面に出かけている日に、だ。
誰よりも報連相をないがしろにする僕に"来るなら来るって先に言えw"と言われて、Mはどう思っただろうか。
それがきっかけで後日、僕から再会を申し出た。
最後に会ったのが27歳くらいだったから...実に5年ぶりの再会だった。
...ここに至るまでが長すぎて、誰も覚えていないと思うんだけども。
ここでやっと、前編の冒頭に貼ったツイートに戻る。
札幌に来たついでに高校時代からの親友に会った。
— kuro隊員 (@kuro_ikdcok) 2019年6月2日
家庭も家も持ち、まっとうな人生を送っている彼は立派な大人の顔をしていた。
彼との思い出は一晩じゃ語り尽くせないほどあって、ボンヤリ回想にふけりながら高速を走っていたら池田に着いてた。
3時間ドライブの暇潰しになってくれて感謝。
Mはちゃんとした大人になっていた。
ちゃんとした大人の定義がなにかはわからないが、僕にはそう見えた。
僕とレポートの残数を比べていた高校生の頃や、お金が無いのに飲みに行きたがっていた大学生の頃からはおよそ想像できなかったけど、ちゃんとした大人になっていた。
バンドもとっくに辞めていた。
"仕事も家も家族もあるんだから、平日夜にスタジオとか休日にライブとかできる訳ねぇじゃんw"と至極まっとうなことを言っていた。
正直、笑った。
僕は何度も"お前大人になったなぁw"とMをからかった。
僕はMの結婚祝いすらしていない不義理な男なので、池田町のワインとブランデーを持参して、ついでに昼メシくらい奢るつもりだったのだが。
Mは"いや今日はお前の当選祝いだ"と言って譲らず、僕はちょっとだけ食い下がるもホイホイ奢られてしまった。
だせぇな僕。
相変わらず粋なヤツだと僕は思った。
"野球、酒、音楽抜きでMと会うなんて、十数年付き合っていて数えるほどしかないような..."と思いながら、僕はMと別れて帰路についた。
最後に
かつての親友Mは大人になってロックを辞めた。
僕は好き勝手に生きることを決めて大人になることを辞めた。
Mと出会って約17年。
いろんな共通点があって、同じ一つのことに熱くなって、くっついて離れて。
今、僕らはいつの間にか正反対の生き方をしている。
まっとうに社会的責任を負って生きるMと、人生どこまで楽しいことだけで埋め尽くせるかを実験中の僕。
皮肉というか不思議というか、人生よくわからないとしか言いようがない。
Mと再会して1時間ほど話をして別れて、池田町までの3時間ドライブの間。
僕の脳内では、Mとのいろいろな思い出が蘇ってきてまったく退屈しなかった。
普段なら何度も睡魔を覚える道なのに、だ。
その思い出のBGMとして、脳内で何度も同じ曲がリフレインしていた。
Mがよくカラオケで歌っていたあの曲が。
今の僕らはまさに、この歌詞のような20代・30代を生きている気がするよ。