こんにちは。
元池田町地域おこし協力隊、現在は池田町議会議員のkuro隊員です。
むかしばなし
昨日、母校野球部の観戦で宿った熱がまだ冷めない…!
— kuro隊員 (@kuro_ikdcok) 2019年7月22日
高校球児の頃のように、一つのことに時間と労力を投入できたら、どんどん今が楽しくなるような気がする。
当たり前か。
前回に引き続き、素人ポエム的自分語りです。
思い出にドップリ浸った無駄話です。
高校野球を引退し、卒業してから第二の青春を送る僕らは、なぜか不思議と仲良くなっていきます。
僕と親友Mの話。
前編はコチラからどうぞ↓
茶ボーズの絆
2004年7月3日。
札幌支部予選決勝にて、札幌第一高校に1-0で僕らは敗れた。
汗と涙の高校野球があっけなく終わった。
僕らのチームは地区予選の1・2回戦を大勝した。
特に2回戦では、23-0というハンパない大差で勝利した。
別に出来すぎた試合でもなく、それくらいのスコアで勝つのが普通なくらい僕らのチームは強かった...はずだった。
相手が優勝候補の一角であることはもちろんわかっていた。
それでも"俺たちはこんなところ(地区予選決勝)で終わるようなチームじゃない"と誰もが信じていたのではないだろうか。
僕ももちろん信じていた。
今のメンバーなら全道大会に出場して当たり前、例え駒大苫小牧高校のような格上が相手でも、ほんのちょっと流れがこちらに傾けば勝てると信じていた。
当時から僕は感情に任せた勢いで行動する一方、いろんなことを客観的に捉えるクセがあった。
それは高校野球においても同じで、"俺ら強ぇぇ!"的な多少の身内ひいきはあれど、それだけの力=強豪校に勝てるだけの力をチームに感じていた。
その客観性はもしかしたら、僕がメンバー外の選手だったから芽生えたものかも知れないけど、大人になってからもそこそこ役立っているのでよしとする。
結果。
淡々と試合は進んでいき、ちょっとしたミスで1点を失った僕らのチームはそのまま敗れ去った。
あっけなく負けた。
"もっとドラマチックな展開が待っているはずだ"と心の中では信じながらも、リードを許して以降、僕を含めた3年生は涙交じりの声援を送っていた。
負けるはずがないと声を張り上げても、アウトカウントが積み重なっていく度に涙は伝染していった。
ドラマなんて起こらなかった。
こうして、僕らの青春を賭けた戦いは終わった。
余談になるが。
僕もMも、この敗戦時の姿がTVで放送されていた。
期せずして僕らはTVデビューを果たしていた。
当時僕の親友だったレギュラーメンバーが"(負けて)ごめん"と泣き崩れるのを頷き抱きしめる僕(もちろん号泣しながら)と。
当時正捕手だったMが、エースの背中を支えながら球場の通路を歩き去っていく姿(背番号1と2が並んでとてもカッコよかった)と。
その映像のバックで流れていた、コブクロの”背番号1”は今でも心に焼き付いている。
そんな僕らの姿が、敗戦から半月後、南北海道大会決勝戦のTV中継時に流れていた。
正直ビックリしたが、それは青春の最後を締めるご褒美だったのかも知れない。
話を元に戻す。
とにかく、僕らは野球部を引退した。
高校野球が終わったら、どんな生活になるのかなんて想像できなかった。
野球部に入るために進学した高校だったので、部活の無い日常というものがどんなものなのか、まるでわからなった。
わからなかったけど、その時に確実に言えたのは"(想像してみたら)こんなに寂しいのは人生で初めてだ"ってことだったのをよく覚えている。
なんとなくだけど"胸にぽっかり穴が開いたような感じなのかなぁ"って喪失感くらいは予想できたのだけど、いざそうなってみたら全然そんなことはなくて。
バイトに遊びに忙しい"普通の高校生らしい日常"が始まっただけだった。
あんなに未知の世界だと思っていた部活の無い日常は、大きな違和感などもなく新たな日常となった。
夏休みに入ってすぐのこと。
僕は髪を茶色に染めてみた。
今後の人生において坊主頭にすることは99%あり得ないと思っていたので、いわゆる"茶ボーズ"というヘアスタイルにするなら今しかないと勇んでいた。
今こうして振り返るといかにも夏にハジけたい男子高校生っぽくて笑えるが、あれから15年たった現在、やはり"茶ボーズ"になる機会はなかった訳で。
当時の僕の予想は的中しているので、よくやったと言っておくことにする。
なお。
ちょっとだけ染めるつもりが思いのほか明るく染まってしまい、内心ビビったのは内緒だ。
夏休み中、僕ら3年生の送別会が開催された。
3年生チームvs1・2年生チームによる紅白戦、3年生を2分割した紅白戦が行われ、僕らがグラウンドに立ってプレーするのは正真正銘最後の日だった。
そんな野球部オフィシャルなイベント、ましてやPTAも駆けつけるような一大イベントだというのに、髪を染めてやってきた不届者が数名いた。
正確には、染めた色を隠そうとしてスプレーで一時的な黒染めをしたけど、ごまかし切れていない者、だ。
僕もMもその数名に含まれていたのは言うまでもない。
当時の指導者はそれほど厳しい方ではなく、"お前らちゃんとせぇよ"くらいの注意を受けたような気がする(あまり覚えていない)。
こっちだって、"始業式に茶色い頭のまま行くなんて、夏休みデビューみたいでダセーじゃん"程度の認識はあった。
"言われなくても黒に戻してから行くって"なんて思っていた。
僕らの母校では、夏でも冬でも長期休み明けの始業式には頭髪検査が実施されている。
僕は登校前日、さすがに黒スプレーではなく黒染めをした。
元の黒髪よりテカテカした色の仕上がりが、どうも気持ち悪かったが仕方ない。
"あいつ夏休みデビューしやがったw"なんて言われるよりはよほどいい。
それでも。
数名の元野球部員が、髪の色でひっかかった。
黒に戻し切れていない、あるいは後頭部や生え際など、染めにくい部分に色が残っていたドジ野郎たちだった。
夏休み中の送別会よりは人数が減ったような気はするが、ひっかかった元部員の中に僕とMが含まれていたのは言うまでもない。
今までは野球ありきでの付き合いだったけど、この時に改めて"あぁMって面白いヤツなんだな"と思った。
こいつは僕と同じで、"もう引退したし別にいいじゃんw"的なノリを持っているのだな、と思った。
そんな共感を覚えて、僕とMは急速に仲良くなっていく。
...という訳でもなかった。
進学するつもりが一切なかった僕は、みんなが学校にいる間にバイトに明け暮れた。
近所のスーパーの総菜売り場、お盆用のお菓子の箱詰め、引越し、イベント設営、ガソリンスタンド...。
勉強も部活もしない学校に行くより、バイトでお金を稼いでいる方がよほど有意義に感じて楽しくなってきた。
おまけに当時は折り合いの悪かった親が"お前これからどうするのか知らんが免許くらいは取っておけ"と資金を出してくれたので、それに甘えて自動車学校にも通い始めた。
学校に丸一日いることがほとんどなくなって。
要はサボってバイトや自動車学校に通っていた。
昼休みに体育館でバレーボールをするためだけに登校した日もあった。
交友関係も、今まで野球部中心だったのが外で知り合った人や地元の友人にシフトしていた。
その交友関係の中にMはいなかった。
そのまま僕は学校をサボりながら月を重ね、いつの間にか高校を卒業していた。
やはりMとの距離は"元チームメイト"の域を出ないままだった。
余談だが、2学期だか3学期の僕の通知表について。
遅刻・早退・欠席の回数が見たことない数字で愕然とした記憶がある。
覚えている限りでは、遅刻の欄に50くらいの数字が記入されていた。
"これ親に見せられる数字じゃないw"とものすごく笑えたが、"もう家を出ることだし闇に葬ってしまおう"なんて思っていたような気がする。
普通の若者たち
前編にも書いたが、僕らが通っていた高校はそこそこの進学校だった。
当然、Mも大学に進学した。
僕はワーキングホリデーでオーストラリアに行くことを決めていた。
とにかく実家から早く出たくて、卒業式が終わって数日後にアパートを借りた。
先立つものは金、学校をサボってバイトしていた成果である。
オーストラリアに出発するのは7月末。
それまでに英語のレッスンに通ったり、フルタイムで働いて資金を少しでも貯めたりと、準備を整える期間のはずだった。
...それらはあくまで予定に過ぎなかった。
ご想像の通り僕は遊びまくった。
実家を飛び出し、必要なお金を働いて稼ぐ。
ごくごく当たり前のことだが、僕にとって初めて自分の手で得た自由が素晴らしすぎたのだ。
遊ぶためには稼がねばと、飲食店のバイトを2つ掛け持ちし、シフトが入っていない時は日雇いの派遣でも働いた。
英語の勉強をする時間など微塵もなかった(する気がなかった)。
野球部の同級生とも頻繁に会うようになった。
みなそれぞれが進学・就職していたが、ガラッと環境が変わったからこそ、3年間苦楽を共にした仲間は気心が知れていて良かったのかもしれない。
そんな遊び仲間の一人...つまりはそこそこヒマなヤツらの中にMがいた。
ついに僕らは元チームメイトから遊び仲間へと関係性を進化させたのだ。
僕らはごく普通の若者だった。
取りたての免許で誰かの実家の車を拝借して海へ行ったり、河原で100人集めてBBQ大会(謎)をしようぜ!と盛り上がったり(実際には30人くらいだったように思う)、徹夜でカラオケの点数を競い合ったり、そんな他愛もないことで遊びまわった。
野球と違うのは、そこに目標がないこと。
練習して結果を出すとか、レギュラーを勝ち取るとか、甲子園に行くとか。
ただの遊びには当然そんな目標なんてものはない。
ただ楽しむだけ、だった。
それも悪くなかった...というか、それ以外に日常をそこそこ楽しむ手段がなかった。
普通の若者として人生楽しんでいる感は確かにあったけど、どこか少し虚しい気持ちも僕にはあった。
目指すもの、挑戦する場所がないって寂しいな、と。
ギター
こうして僕は、高校を卒業して3か月後にオーストラリアに行った。
1年間滞在するつもりだったが、オーストラリアでもバイトして遊びまわっているだけだったので、"日本でも外国でも、どっちにいたってやること一緒じゃね"と気づいてしまった。
そんなアホな理由で、僕は早めに帰国することにした。
英語は多少話せるようになったが、いわゆるペラペラってレベルではない。
帰国の日を決めた。
南半球のオーストラリアは夏だったが、日本の季節は冬。
なにげなく覗いた飛行機の窓から、雪で覆われた北海道の白い大地を見てはじめて"あ、俺ふるさとに帰ってきたんだ"と急に実感が湧いた。
空港まで迎えに来てくれたのはMだった。
オーストラリアから大阪を経由して帰ってきたのだけど、トランジットの都合上、大阪で1泊しなければならなかった。
友人たちには帰ることを知らせていなかったので、大阪のホテルで僕は数人に電話をかけた。
"俺明日帰るから遊ぼうぜ"と。
急な電話、しかも平日にも関わらず、Mは車で迎えに来てくれた。
それにも関わらずこんなこと言うのは失礼だけど...たぶんヒマだったんだろうと思う。
僕が"オーストラリアのタバコだぞ!"と言って差し出した、日本でも売っている普通のマルボロを"おぉマジで!"と言って吸っていたのが懐かしい。
こうして僕らは再び、目標の無い遊びに没頭した。
朝日を見るためだけに真冬の夜中に宗谷岬を目指したり、特に理由もなく北海道を一周したりした。
もちろん朝まで飲み歩くことも多々あった。
ある日僕らは、レジャスポというところに遊びに行った。
今で言うところのラウンドワンみたいな複合レジャー施設だった。
スポーツなりダーツなり、ダラダラと一通りのメニューを終えた僕らは、ふと音楽スタジオがあることに気づいた。
"俺らちょうど4人いるしバンドやろうぜ!"的なノリでスタジオに駆け込んだ僕らだが、誰も楽器なんてまともに弾けるヤツはいない。
みんなカラオケで好き勝手に歌う程度の連中だった。
ただ一人...
Mを除いては。
そういえばMの部屋にはギターがあった。
が、実際に弾いているところは見たことがなく、"どうせ飾ってあるだけであんまり弾けないんでしょw"くらいにしか思っていなかった。
ところが。
Mは慣れた様子でギターを構えると、Dragon AshのLife goes onを事もなげに弾き始めた。
僕"( ゚д゚)!"
僕もギターを弾けるようになってわかったが、Life goes onのイントロのアルペジオは決して難しくない。
というかめちゃくちゃ簡単だ。
それでもその時はそんなことを知る由もなく、急に滑らかな演奏を始めたMにただただ衝撃を受けた。
ただのヒマ人同士でつるんだ遊び仲間だと思っていたヤツ(失礼)が、突然目の前でギタリストになったのだからそりゃビビる。
"取り柄の無いヒマ人は俺だけじゃんか!"と焦る一方、"なにその特技カッコいいうらやましい!"とも思った。
自分もギターを弾けるようになりたい欲がドッと湧いてきた。
こうして僕はギターを弾き始めた。
野球以外に熱くなれるものがやっと見つかった気がしていた。
目的の無い遊びじゃなくて、"もっと上手くなりたい!"と打ち込めることの幸せを確かに感じた。
この時、僕がMの演奏を聴いていなければ、僕は多分もっとつまらない20代を生きていたように思う。
第二の青春
僕がギターを始めた当時、固定の遊び仲間は僕とMを含めて4人だった。
もちろん全員が元野球部、元チームメイト、現在ヒマ人である。
ヒマと情熱を持て余した若者らしく、僕とMはすぐに"バンド組もうぜ!"とはしゃいでいた。
ところが意外なことに、残り2人のうち1人は全く興味を示さず、もう1人もあまり乗り気ではなかった。
どうにか1人を説得してボーカル&ベースに据え、ドラムに高校時代の友人(野球部ではない)を加え、形はギリギリ整った。
それぞれが好きなバンドを挙げて、その中から(技術的に手が出せそうな)曲を練習する日々が始まった。
the pilllows、THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、THE BLUE HEARTSあたりのスコアを買っては、コンビニで人数分コピーしてはしゃいでいた。
やっていることはまるで高校生のようだったが、僕らの青春はどっぷり野球漬けだったので、リアルタイムで体験することのできなかった第二の青春のようで僕は楽しかった。
毎週末、スタジオに通う日々を送った。
僕は当時、"飲んだ後に家まで帰るのがめんどくさい"というクソみたいな理由で、すすきのから徒歩3分くらいのアパートに住んでいた。
そんな便利な部屋がたまり場にならない訳がなく、週末には必ず誰かが泊まっていくような部屋だった。
...すっかり人嫌いになった今の僕からすれば、およそ考えられないことだ。
そんな日々を過ごしていたのだけど、一時期、バンドは僕とMだけになってしまった。
バンドに限らず、社会人が集まって趣味に打ち込むなんて楽なことではないのだから、致し方ないとしか言えない。
僕とMの楽器はどちらもギター。
ギターが2人だけでは今まで練習していた曲も盛り上がらないので、何を思ったか僕らは"オリジナル曲を作ろう!"という結論に至った。
念のため言っておくが、その頃の僕は...いや僕らは本当にドヘタクソである。
コピーすらままならない腕前のクセに曲を作ろうなんて、キャベツの千切りもできないのに創作料理に挑戦するようなものである(もっといい例えを募集する)。
それでも僕らは曲を作った。
最低限の録音機材をそれぞれ買って、右も左もわからない状態で曲を作ってみた。
音楽の授業=睡眠時間でしかなかった僕が、教本を買って初めて和音の仕組みを学んだ。
それぞれが作った曲を、週末に僕のアパートで発表しあう瞬間の気恥ずかしさときたら、そりゃもう異次元のレベルだった。
だって曲だけじゃなくて歌詞まで作っているんだもの。
素人が作った曲を素人が演奏して素人が歌って、素人が歌詞まで書いてんだもの。
そりゃあ笑えるし恥ずかしいに決まっている...。
それでも僕らは曲を作っては披露しあい、スタジオで練習して酒を飲んだ。
札幌から車で1時間ほどの町に就職したMだったが、毎週欠かさず札幌に帰ってきて土曜日は僕のアパートで寝ていた。
そんな日々が僕は心から楽しかった。
...が、それがいつまでも続いてほしいと願う一方で。
そうもいかないこともうすうすわかっていた。
続く
えーと
長すぎて疲れた
ので区切ります。
だいぶ端折って書いているつもりなんですがね。
文章を短く適切にまとめる能力がないんですね。
次回で確実に終わります!
ではまた(^O^)/