こんにちは。
元池田町地域おこし協力隊、現在は池田町議会議員のkuro隊員です。
むかしばなし
札幌に来たついでに高校時代からの親友に会った。
— kuro隊員@(たぶん)日本一弱いジムオーナー (@kuro_ikdcok) 2019年6月2日
家庭も家も持ち、まっとうな人生を送っている彼は立派な大人の顔をしていた。
彼との思い出は一晩じゃ語り尽くせないほどあって、ボンヤリ回想にふけりながら高速を走っていたら池田に着いてた。
3時間ドライブの暇潰しになってくれて感謝。
今回のお話は、いつもの記事以上にただの自分語りでございます。
意図的にかどうかは微妙なところですが、当blogでは"現在"と"未来"の話を書くのが一つのテーマです。
"過去"の話となると、なんとなく美化しちゃってたり感傷的だったり素人ポエムなイタい文章になりそうだってのもありますかね。
ということで、かつての親友と数年ぶりに会ったって話!
親友M
先日、かつての親友に5年ぶりくらいに会った。
彼の名を"M"として。
Mと初めて出会ったのは高校1年生。
"野球部が強い公立高校"という条件で高校を選んで受験し、晴れて入学した高校の同じ学科だった。
今となってはその片鱗はどこにもないのだが。
僕らは"情報技術科"という科に属していた。
プログラムの基礎、電子回路、CADなど、授業の内容は工業高校+一般教科にも力を入れているようなものと思ってもらえればいい。
僕もMも、成績は良くなかった。
そもそも工業系科目への興味などゼロで、ただ"この高校の野球部強いしいいんじゃね"くらいの動機で入学してきた訳なので、勉強に身が入らないのは当然なのだけども(言い訳)。
僕と同じように、"この学校の野球部に入るため"に技術科を選んだ生徒は多かった。
公立高校には珍しく複数の学科を備える中で、単純に偏差値で言えば技術科は下から1~2番目の学科だったので狙い目だったのだ。
それでもそこらの学校よりは少々上のランクではあったので、受験に際しては人生で一番勉強に励んだように記憶している。
技術科クラスの40人のうち、女子は2人のみ。
38人が男子、さらにはその内の10数名、実に1/3くらいが野球部=坊主頭という"青春ってなんだ"と叫びたくなるような色気のない環境に僕らはいた。
(商業系や語学系学科では男女比率が逆だったので、学年全体で見れば女子生徒の方が多かったのがせめてもの救いだった)
技術科には、ほぼ毎週の実習&レポート提出という"野球部泣かせ"のプログラムがあった。
毎週火曜日に3コマを使って実習、その翌々日の木曜日までにレポートをまとめて提出する、というものだ。
それだけを聞くと、"普通の宿題みたいなもんじゃね"と思うかも知れないが、レポートを提出しただけでは終わらないのがキツいところだった。
レポート提出後には担当教師との口頭確認が待っている。
"この考察について説明して"とか、提出したレポートを担当教師が読みながら、そんな質問がアドリブでバシバシ飛んでくる。
勉強ができる友人のレポートを半ば強引なお願いで丸写しして提出したとしても、それを口頭で説明できないといけないのだ。
担当教師によってはちょっと答えに窮しただけで"はい理解できてないね出直してこい"と打ち切られることもある。
真偽は不明だが、口頭確認をパスしなければ問答無用で通知表に"1"がつくとの噂もあった。
朝、授業の合間の10分休み、昼休み、放課後。
登校してから放課後の部活開始まで、全ての空き時間を駆使してレポートの口頭確認に挑まねばならない。
そもそも野球部に放課後の自由時間など無いに等しい。
公立高校らしく、実績ある運動部だからと特別扱いをしない校風だったため、"技術科でレポートが大変だから部活に遅れる"とか"野球部だから授業に関しては甘やかされる"なんてことは問答無用でアウトな世界。
そんなに大変なら部活辞めろと言われたこともあったし、なんなら"野球部のクセに"と目の敵にしてくる大人げない教師もいたくらいだった。
放課後を除いた日中のわずかな時間を割いては、丸暗記や一夜漬けの知識をひっさげて技術科職員室の扉をノックするのである。
このレポートにまつわるエピソードはたくさんあるのだけど、蛇足になるので割愛するとして。
僕もMも、このレポートには散々苦労した。
なんせ毎週もれなく実習があるので、早々に合格しなければレポートがたまっていくのは当然だ。
僕とMは出席番号が近いため、同じ班で実習を受けていた。
同じ実習を受け、同じペースでレポートをため込んで、時に抜きつ抜かれつしながら3年間を過ごした。
僕"お前レポート何個たまってる?"
M"えーと...3つかな"
僕"勝った俺2つ!!"
そんなアホ極まりない会話をよく交わしていたものだ。
勉強嫌いの僕らがレポートを要領よく捌いていける訳もなく、"レポートためがちな野球部員"というカテゴライズをされたのが最初の共通点だったように思う。
野球選手として
勉強の面ではそんなだらしない共通点を持つ僕らだったが、野球においては決定的な違いがあった。
Mは1年秋から背番号を獲得し、2年の秋から最後の夏を終えるまで不動の正捕手。
かたや僕は、一度も背番号を手にすることなく3年間を終えた不動の応援要員。
自慢ではないが、僕らの野球部はそこそこ強かった。
2学年上の先輩には、卒業後に育成選手ながらプロ入りした怪物もいた。
僕らの世代は、かの駒大苫小牧高校が北海道初の全国制覇を成し遂げた世代だった。
走攻守の全てにおいて圧倒的なスピードで試合を支配する駒苫は、誰がどう見ても北海道内ではズバ抜けて強かった。
僕らのチームは、春季全道大会準決勝にて、その駒苫と接戦の末に1点差で敗れたくらいの強さだと言えばわかりやすいだろうか。
なお2年生時の秋季大会では、後に社会人チームを経て日ハムに入団した瀬川投手を擁した北海高校に敗れている。
恐ろしくキレイな球筋でバンバン投げ込んでくるピッチャーだと(スタンドから)惚れ惚れしたものだ。
最近の話をするなら、2019年の夏に2年生バッテリーが中心となり、あと一つで甲子園!というところまで駆け上がった。
9回裏2連打により涙腺崩壊のお知らせです。
— kuro隊員@(たぶん)日本一弱いジムオーナー (@kuro_ikdcok) 2019年7月21日
そして1アウト2,3塁!
一時期は低迷していた母校野球部だったが、僕らの前後数年世代同様、"公立最強校"的なポジションに再び立っているのではないか、と思う。
母校の話はこの辺にしておいて。
ひょうひょうとしているようで抜け目のない性格のMは、キャッチャーというポジションがとてもよく似合っていた。
万年補欠の僕に言われたくないであろうが、決してセンスや体格に恵まれていないにも関わらず、意外なところでタイムリーを打ったり激しいクロスプレーをやってのけた。
高校卒業後に結成した草野球チームでは、純粋な身体能力で勝る僕の方が明らかに成績がよかったというのに....。
ポジションが違うので(僕は外野手)ライバルという意識はなかったが。
正捕手とメンバー外という実績・立場上の差は大いにあった。
忘れられない言葉
この記事のタイトルでも"親友"という表現をしているが。
実を言うと、高校生の頃は僕とMは特別仲がいいという訳ではなかった。
同じ学科で同じ部活、実習の班まで同じなのに、プライベートで属するグループは違っていた。
キャッチャーというポジション柄なのか人間関係もそつなく築けるM。
当時からちょっと偏屈で交友関係の狭い僕。
そんな明確な違いがあるものだから、あくまで僕らはチームメイトの域を出ない付き合いだったように思う。
そんなにも接点の無い僕らだったが。
ある日、Mから言われた忘れられない言葉がある。
高校2年生の初夏、僕は背中を痛めた。
バットを振ると痛い。
バーベルを持っても痛い。
ひどい時は息が上がって呼吸が大きくなるだけでも痛かった。
今思い出してもやるせない話だが。
最初に病院にかかった時には椎間板ヘルニアの疑い、と診断された。
"...あぁ、これもしかして野球続けられないヤツか"と深くショックを受けた。
疑いってだけで絶望するなんて少々早合点すぎると思われるかも知れないが。
当時16歳だった僕は、それほどまでに青春を野球に捧げていた。
例え"ヘルニアの疑い"だったとしても、その青春が全て消えてしまう可能性のある症名を聞いたときには本当に頭が真っ白になった。
なにも考えられないほどのショックを受けたのは、これが人生で初めてだったかもしれない。
野球がしたくて入学した学校で、野球ができなくなる日々なんて全く想像できなかった。
野球部を辞めるなら、いっそ学校も辞めて働こうと思ったほどだった。
僕は当時から卑屈で自己評価が低いクソネガティブ野郎だった。
幸いにも、前述したように僕は背番号とは無縁の選手だったので、今ここでひっそりと退部したって誰にも迷惑はかからない。
チームの戦力がダウンする訳じゃないし、むしろ誰か一人でも"あいつ(僕)の分までがんばろう"と発奮してくれるならむしろチームの力になれる。
そんなクソみたいなことを考えていた。
自分は去るがどうか忘れないでほしい、という都合のいい思考。
今振り返ると"グチグチしてんじゃねぇよ〇すぞ"って思うほど恥ずかしい。
で。
診断を受けて数日後の雨降りの日。
そんなことを考えながら授業中に窓から外を眺めていたら、知らず知らずのうちに涙が溢れてきた。
居眠りしたふりをしてやり過ごしたけど、"あぁそうか、俺やっぱり野球辞めたくないんだろうな"と思った。
今、その時の自分を冷静になって振り返ると、"哀愁ヒロイック感に酔ってないでさっさと違う病院行けよ"と言いたくなるのは内緒だ。
もう一度言うが、当時僕は16歳。
"怪我なんてどうにでもならぁ!"と笑い飛ばせるほど無神経でもなければ、"もっといい医者を探して絶対に治す!"なんて行動できるようなバイタリティは持ち合わせていなかった。
なによりも、高校野球には時間制限があることを忘れてはならない。
高校球児として甲子園を目指せるのは、どんなに才能や実力があっても3年だけなのだ。
例えば半年で完治する程度の怪我だったとしても...その半年がどれだけ長いかは想像できるだろう?
少なからず大人になった今だからこそ、当時の自分を笑えているのだ。
そして。
その日の放課後、授業が終わって教室を出たらMがいた。
僕"今日病院行くから練習休むわ"
M"なんの病院?"
僕"ヘルニアかも知れないんだってさ"
M"えマジで"
僕"今日は別の病院で診てもらうけど、本当にヘルニアだったら野球辞めるわ"
M"お前が辞めるなら俺も辞めるわ"
僕"(!)"
ビックリした。
もう既に背番号を手にしていて、夏が過ぎて新チームになれば恐らくは正捕手当確のMが、そんなことを言うとは思っていなかったのだ。
Mのキャラクターからしてきっと冗談半分に軽い気持ちで言ったのだろうけど、サラッとそう言われたことが嬉しかった。
と、同時に。
まだ診断結果がはっきりしていないのにも関わらず、勝手に凹んで逃げ出すことを考えていた自分に気づいた。
"こう言ってくれるチームメイトがいるんだから、選手ではなくなったとしても部に残ろう"と素直に思えた。
やっぱり僕もチームの一員=当事者でいたかったことに気づかせてくれたMには感謝しかない。
.....なお。
お粗末なオチなのだが、結局僕のケガは背筋の炎症のちょっとヒドめのやつで済んだ。
"最初に診断した医者てめぇこの野郎"と毒づいたのは一瞬で、まだ選手でいられることの喜びが圧倒的に勝った。
あの日以降、野球部を辞めようと思ったことは一度も無い。
例えどんなに練習が辛くとも、練習の結果が出ず打ちのめされようとも。
その後、僕らのチームは前述したとおりに奮闘した。
強豪私立校以外にはほぼ負けなしのチームへと成長し、最後の最後まで甲子園を目指し続けた。
いや、甲子園を狙える位置にいることができた、と言うべきか。
大穴ではあったが、甲子園に出場してもおかしくないという評価を受けた僕らのチームは、本当に誇りだった。
....一応、言及しておこうか。
僕は背番号を獲得できずに、チームメイトを全力で応援するだけの3年間だった。
悔しいのに悔いは無いのは我ながら不思議な感情だと思う。
怪我の話ついでの余談だが。
僕は3年生の初夏に肋骨の疲労骨折をやらかす。
最後の夏のメンバー発表を間近に控えた頃。
既に僕はメンバー入りが絶望的だったのは自覚していたが、じっとしていられなかった。
ただただガムシャラに練習量を増やした。
日々の練習や試合が終わって、チームメイトがグラウンドを後にしても、日が沈んでもバットを振った。
なんだろう。
少しでも何かして追いつく努力をしていないと、自分がこのチームにいる資格が無いと思っていたのかも知れない。
結果。
むやみやたらに増やした練習と、この頃なぜか原因不明の咳が数週間も止まらず、その両方が原因で僕の肋骨は疲労骨折してしまったらしい。
もともと絶望的だったメンバー入りの可能性がゼロになったのと同時に、少しホッとした自分がいた。
"うん、もうやれるだけのことはやった"と思えた。
この時、野球を始めて8年ほどが経っていた。
ヘタクソながらにやるだけやったという境地に辿り着けたのは嬉しかったが、今初めてその境地に立ったということはすなわち、これまでがいかに努力不足だったかもはっきりと自覚した。
ただ、なんと言うか。
今までの苦労も葛藤も成功も失敗も、全部がキレイに消えてなくなったような心境だった。
"俺はここまで、あとはチームが勝てばいい"という純粋な気持ちだけが残った。
たぶん、この時僕は全てを託す覚悟ができたのだ。
今まで共に戦ってきたチームメイトたちに全てを託す覚悟が。
そこで僕の.....僕個人の青春は終わった。
さて。
どうも美談のように書いてしまうのは、人はみな思い出を美化する習性を持つであろうから仕方ないとして、だ。
あくまで。
ケガの有無に関係なく、僕は単純に実力不足でメンバー外だったということは忘れないでほしい。
そんなこんなで。
最後の試合、先発でマスクをかぶったMは途中で後輩と交代した。
その後輩のちょっとしたミスで、致命的な決勝点を奪われた。
そして僕らは0-1というスコアで敗れた。
9回最後の攻撃で最後のアウトは、ミスをした後輩の三振というどこまでもドラマチックで残酷な幕切れだった。
誰もミスをした後輩を責める気なんて微塵も無かった。
むしろ今までよくやってくれたと称賛したいくらいだった。
ただ...もしかしたら。
交代したMだけは別な後悔があったのかもしれない。
自分が交代させられるような選手じゃなければ
自分がずっとマスクをかぶっていれば
なんて思っていたのだとしたら。
あくまで推測だが、もしもそうであれば、僕の思い出話はもうちょっと深いものになるかもしれない。
この推測は、この記事を書いていて初めて気がついたものだ。
次にMと酒を酌み交わす機会があれば、この辺を改めて聴いてみたいものである。
とにかく。
そんな感じで僕らの高校野球は終わったのだが。
僕とMが、最後まで共に甲子園を目指した戦友でいられたことを今でも嬉しく思う。
そしてお粗末なオチがもう一つ。
そんな熱い想いの詰まった美談なのだから、僕が背中のケガから立ち直るエピソードが今でも語り草になっているように思われるかもしれない。
高校を卒業して数年後、酒を飲みながらMに聞いてみたことがある。
僕"俺がケガした時、「お前が辞めるなら俺も辞める」って言ったの覚えてる?あれめっちゃ嬉しかったんだけど"
M"なにそれ知らね"
...やっぱり深い意味はなかったんだね。
M、お前らしいよ。
続く
レポートや僕の個人的感情を無駄に長々書いてしまったので、ここでいったん区切ります。
不思議と高校卒業後に、ただのチームメイトだった僕とMは仲良くなっていくのですが、それは野球から離れた僕らの第二の青春と呼べるような充実した時間でした。
ここまで読んでいただいた方、素人ポエム的文章にお付き合いいただきありがとうございます。
ではまた(^O^)/