こんにちは。
北海道池田町の地域おこし協力隊、kuro隊員です。
雪、雨、あられと、様々な天気を見せる池田町ですが、辛うじて風邪を引かずに過ごしています。
部屋の隙間もアホみたいに目張りしまくったし、もう冬を乗り越えた気でいます。
年末なので振り返る
1年の振り返りは上半期の反省記事で投稿済ということにして、kuro隊員が地域おこし協力隊になるまでの人生について書こうかと思います。
誕生~幼少期
1986年7月27日、札幌市東区にて誕生。両親、姉の4人家族。
幼稚園では友達とケンカばかりしていたようで、先生から母へ報告の電話が頻繁に来ては怒られていました。
入園当初は友達によく泣かされていたらしいけど、父親にパンチの打ち方(?)を教えてもらってからは、ほぼ負け無しのケンカ好き園児でした。
色が白くて痩せ細っていたので、よく女の子に間違えられたそうです。今じゃヒゲもじゃでその欠片もないけど。
とにかく動き回る活発な少年だったと聞きます。
小学生
どこにでもいる元気な少年
ケンカっ早い癖は低学年で消えました。
当時はサッカーJリーグができた時代で三浦和良が少年たちの憧れでした。
kuro隊員もJリーグチームのキャップを被って、毎日路上や公園でサッカーしていた気がします。確かベルディ川崎の緑色のキャップ。
足が速くスポーツ全般が好きで、昼休みのドッジボールと体育の時間が楽しみでしょうがなかったとはっきり覚えています。短距離、跳び箱、縄跳び、器械体操なんかは超得意。今現在は息が上がったり足がつったりして無理でしょうが。
人生で唯一の習い事である水泳は、バタフライまでどうにか到達。
野球との出会い
多くのスポーツの中でも野球にハマります。サッカーブームの中、たまたま仲良しの友達が野球好きばかりだったので自然と始めました。今思えば球技系スポーツのセンス無いから止めときなよと言いたい。陸上かボードかボルダリングにしとけ、と。
当時のスター選手はイチロー、野茂、松井あたりで、3選手ともに特徴のあるフォームなので、野球少年の間ではよく物真似の対象になっていました。
小学4年生頃から少年野球チームに入り、朝練のため眠気と闘いながら5時過ぎに家を出て、夜の間点いていた街灯が消える瞬間を見たことが何故か印象に残ってます。
セカンド、ショート、外野と目まぐるしくポジションを移り、最終的にはサードに落ち着きました。
打順は大体7番、良くて2番か6番。
足と肩だけが取り柄で技術もパワーも皆無。まぁひ弱な選手でした。
なお、チームは地区最弱。
なんと小学校卒業式の写真だけ手元にありました。色白。
中学生
引き続き野球にハマる
迷わず野球部に入部。相変わらずパワー不足のヒョロい少年でした。
身長だけは3年間で良く伸び、中学3年生時点で現在とほぼ変わりません。
つまり早熟で伸び悩んだって事ですね。背が高いという優越感は1年間だけで終了。
色んな経緯があり2年生の冬からキャプテンとなりました。
ポジションはサード、ピッチャー、キャッチャーとコロコロ変わり、センターに落ち着きます。この頃から若干イップス疑惑があったので、細かい送球の少ない外野に自分からコンバートを申し出ました。
身長が伸びたせいかバッティングも少しだけ向上し、打順は3番、4番を経て1番に定着。ヒットの半分は内野安打という、憧れのイチロー顔負け(?)なスタイルでした。
クリーンヒットよりも内野ゴロを打った時の方がベンチが沸くというね。
なお、小学生時代に引き続きチームは地区最弱。人呼んで最弱請負人、kuro隊員。
ちなみにまだこの頃は勉強も頑張っていたので、トップクラスではないですがそこそこの成績でした。普通に一夜漬けでも努力すれば、いわゆる5教科の通知表なんてだいたい"4"か"5"に決まってるし、定期テストで科目別ならクラストップを取るなんて余裕じゃないっすか。
しかし美術と音楽は思春期なりの恥ずかしさなのか、完全に休憩時間と認識していました。そもそも歌のテストでは仁王立ちだったし、美術の課題は点描画くらいしか提出した記憶がありません。
だってみんなの前で得意でもない歌をうたうなんて罰ゲームじゃん!って本気で思ってたからね!せめて個室でやれや、と。
だから今でも芸術的センスに乏しいんでしょうね。三つ子の魂百まで!
集合写真しかなかったのでトリミングしたら、昭和の写真のような画質に...。
何となく抱き始めた違和感
いわゆる中二病と言われてしまうかも知れませんが、中学3年生頃から周囲とのズレを感じます。今まで遊んでばっかりだった友人が急に受験受験言い出したり、逆に勉強に嫌気が指したのかヤサぐれてみるヤツがいたり。
先生たちも受験や将来について熱く語ります。もちろん大事なのはわかるんだけど、何となくシラケた感じで聞いていたように思います。「そんな事みんな頭ではわかってるんだから、無理やり動かそうとしてもムダなんじゃないの」みたいな感じで。
当時は家でも学校でもそこそこマジメぶっていたので、全く口にはしませんでしたがね!真面目な子どもだと思われていた方が楽だな、と気付いていたので、猫かぶりは当時から得意だったんですよ。心の中では大人クソくらえと思ってたけどね。
kuro隊員は普通に進学して普通に就職して...という人生なんだろうなぁと思っていました。だって野球以外にやりたいことなかったんだもの。
勉強を死ぬほど頑張ってトップクラスで卒業して大企業に就職!って道を目指す気も無いし、とりあえず高校球児として甲子園に行けたらいいや、とその後の人生に夢も目標も無く「それなり」に生きていくような気がしていました。
ただしできるだけ色んな場所に行けるような仕事だったらいいなぁとボンヤリ描いていたような気はします。
まさかその10数年後に住所不定でフラフラしてるとは思いもしなかったでしょうね。ある意味色んな場所に行ける仕事には就けました笑
kuro青年よ、お前の夢は一つ叶ったぞ!!
高校生
青春
公立高校の情報技術科へ入学。
「私立校で野球をやらせる程、我が家に余裕はないよ」と両親に言われたため、公立校であり野球も地区最強に近い高校を選びました。ホントはもっと激しい言い争いを超えて、だけどね。
公立校&野球強豪校&ランク的にも手が届く、という複数の条件を唯一クリアした高校。ここに落ちたら野球とはサヨナラだったため、必死こいて勉強しましたよ。オールナイトニッポンを聴きながらね。
結果的に受験をパスして入学する訳ですが、まぁ勉強も野球もレベル高いこと。入学早々のクラス分けで数学は最低クラスに振り分けられました。
「入学してしまえばこっちのもの。勉強は適当でいいから野球だけできればいいや」と甘く考えていましたが、そこはさすがに公立校。文武両道を求められ、興味の無い技術科目に四苦八苦。レポート提出と練習に追われ、恋愛にうつつを抜かす暇もない。ちょっとはしてたけどね!
野球部の方はと言うと、私が1年生の頃、後にプロ入りする3年生の先輩がいましたがレベルの違いに驚きました。おぉ、またホームランかぁって見慣れるようなレベルね。
同年代も自分より遥かにレベルが高く「レギュラーになれるんだろか?」という不安と「このメンバーなら甲子園に行ける!」という期待を抱いたことを鮮明に覚えています。
17歳。見事にボーズ頭ですね。
サラバ青春
波瀾万丈な野球部での青春、もうホントに泣いたり笑ったりを文字にできないし、仮にしようとしても長くなるので結果だけ。
kuro隊員はレギュラーどころかベンチ入りすら叶いませんでした。公式戦でどんなに手に汗握る展開になっても、自分にできるのはスタンドから声援を送って仲間の活躍を心から願うこと。
小・中と弱小チームながらレギュラーとして試合に出場していたkuro隊員にとってはまぁ悔しかったです。
しかし猛練習の成果でヒョロい身体がバッキバキの逆三角形になったり、足の速さを活かすために(実際にはイチローや前田智徳に憧れて)左打ちに挑戦したり、自分は試合には出られないけど本気で応援したいと思える仲間たちに出会えたりと、得た物は多いです。
チームとしては春季大会北海道ベスト4が最高成績。
最後の夏は地区予選の決勝で敗退。忘れもしない7月3日。
そういえばね、kuro隊員は北海道勢が初めて甲子園で優勝した世代なんですよ。圧倒的なスピードと打撃で勝ち続けた駒大苫小牧高校、覚えている方も多いんじゃないでしょうか?
その駒大苫小牧高校に春季全道大会の準決勝で4-3で敗れてのベスト4でした。甲子園がかかった試合ではないにしろ、その時勝っておけば相当自慢できたのに、惜しいなぁ...。
なんてね!
また、数年前に日ハムに入団した瀬川投手も同じ札幌地区の高校。すごくキレイな球筋のボールを投げるなぁと思っていましたが、まさかプロに行くとは。
そんなアツい高校球児として汗と涙の青春に幕を降ろしました。最後の試合に敗れた直後、チームメイトと抱き合って号泣する姿がTVに写ったりしました。こんな形でTVデビューを果たすなんてね!
この頃には進学する気ゼロだったので勉強は放り投げてました。
得意科目の社会科系だけはクラス1位を取ったりする半面、数学はリアル0点を取って相当凹みました。
失った目標、その次は?
さて、結構な文字数となったのでここで区切ります。
ここからkuro隊員の人生が目まぐるしく動き始めます。
よって2部編成に変更。※無計画さが良くでています。
これにて前編終了。
続きはコチラ↓
ではまた(^_^)/~
※平成29年3月7日、全面的にリライト。